自然観の違い

ドイツと日本の自然観を比較
2001/1 作製
友人宅の日本庭園
トピック“日本ブーム?”にも登場しました。“ドイツ+日本風庭園+芝生+夏の椅子”のコンビネーションが絶妙
<もくじ>
mayuさんの掲示板書き込み
例1:公園の樹木
例2:自然は管理できるはず?
例3:BONSAIとサイコロ型植木
JKG-maruさんの掲示板書き込みをご紹介
mayuさんの掲示板書き込み
mayuさんから掲示板に下のような書き込みをいただきました。これをヒントにして、ドイツと日本の自然観の違いがどのようなものか、日頃感じていることを書いてみます。
   卒論で…
はじめまして。
私は今大学4年生で卒論に追われています。公園緑地についての論文なんですけれども、日本との比較にドイツをあげています。ただ、論文の仮説が自然観の違いによって公園も変わってくるのだ、っていうものなので、なかなか難しいです。自然観って、難しいですよね?ドイツではどのように公園について考えているのか教えてほしいです。よろしくお願いします。 

そもそも“自然観”って何なのでしょう? 言葉通り『自然をどう観るか』ということだと思いますが、『人が自然と向き合う時の姿勢』とも言えそうです。

ドイツにいると、いろいろな経験を通してドイツの自然観に触れることができます。さらに面白いのは、日本の自然観についても多くのものが見えてくること。外から眺めることによって、初めて見えてくるものもあるということですね。いくつかの例をみながらドイツと日本の自然観を比べてみます。
 

例1:公園の樹木

ハノーファーにある大きなフランス様式(ヨーロッパ式)の公園に行った時の話。園内の通路を歩いていると、数メートルおきに高さ1mくらいの植木が立っています。びっくりしたのがその形。見事なくらい“真四角のサイコロ型”にカットしてあります。日本の伝統的な公園ではちょっとお目にかかれない、見事な平面と直角。そこにあるのは命を持った木ではなく、単なる一つの物体です。木を管理している人は、もちろん、青々とした葉をつけるように手入れをしているはず。でもそこには生命に対する尊厳というものは全くありません。

これはかなり極端な例ですが、フランス様式の幾何学的な公園では多かれ少なかれ見られる光景です。そういった公園の中の自然は管理される“物”であって、樹木本来の生命感はあまり重要ではありません。フランス式の幾何学的な公園がいいのか、ビオトープ型の公園がいいのか、あるいは日本の伝統的な庭園がいいのか。これは好みの問題としか言いようがありませんが、ドイツでは幾何学的な公園が好まれます。


例2:自然は管理できるはず?

ある友人(ドイツ人)との会話。

彼女:『中国は人口が多くて大変なら、砂漠を緑に変えればいいのに。』
  私 :『でも、そのためにはばく大な資金と大量の水が必要。それに、すごい勢いで進む砂漠化に人間の力で対抗するのは難しいのでは。』
彼女:『でも、イスラエルなどでは砂漠のなかで野菜を作っているよ。なぜ中国ではできないの?』

確かに、そういった緑化の可能な国や地域もあるでしょう。でも、それが世界中すべての砂漠で通用するわけではないはず。彼女には“ドイツとはスケールの違う大きな自然”や“人間が制御できない自然の脅威”というものが実感として理解できないのです。そんな風に、自然観はその人の育った国、地域、宗教、体験などによって大きく違ってくるもの。

ドイツの自然環境は日本に比べて、よくコントロールされています。ドイツにも時々大嵐が来たり、川があふれたりしますが、日本のような“むき出しの自然の荒々しさ”を感じることはずっと少ないです。


例3:BONSAIとサイコロ型植木

ドイツあれこれ > BONSAI”にも書いた通り、ドイツはBONSAIブーム。“小さな木と1対1で向き合う”ような自然観はドイツには無いもので、多くの人が新鮮さと魅力を感じるようです。盆栽と例1のサイコロ型植木を比較すると、いろいろ面白い発見があります。

一見すると盆栽の方が自然に近いように見えます。ミニチュアではあってもその中に自然のエッセンスが凝縮されているからです。でも盆栽とサイコロ型植木のどちらが、より人の手を必要とするかと言えば、やっぱり盆栽でしょう。こまめに剪定(せんてい)し、時には針金で枝の向きを変えたり。盆栽の方が人の手で厳しくコントロールされた“より人工的なもの”だと感じます。

しかし、盆栽とサイコロ型植木には決定的な違いがあります。それは、ちょっと抽象的な言い方ですが“人と木の心の対話”が有るか無いかです。この違いは日本の伝統的な庭園とフランス式の庭園を比較した時にも感じることです。

ここまで書いてきたことは、すべて私の主観的な意見です。違った意見を持つ方もいるはずですし、同じテーマを歴史的、宗教的に眺めれば、また別の話になるでしょう。断っておきたいのは、ドイツと日本の自然観を比べてどちらが正しいとか、どちらが優れているとか言うつもりのないこと。日本で育った私にとって、日本の自然観の方が親しみ深いのは確かですが、大切なのは他の国の人々の自然観を尊重することだと思います。そのことは生命観や宗教観でも同様に大切なことではないでしょうか?

JKG-maruさんの掲示板書き込みをご紹介
<自然観> 2001/01/03

あけましておめでとうございます。

年末からmayuさん、MASAさんのやりとりを見て感じたこと

最初にヨーロッパに行き、町並みを眺め公園を回り、石と土の風景ときれいに造形された公園に、日本の木と紙の文化や自然に対するちがいの様なものを意識したことがあります。もうひとつは、スペースの使い方です。日本では公園、スポットパークでさえ遊具などの類をきちっとはめ込みますが、何もない広場や緑地帯がそれ自体で価値を持つということを感じました。

後年ミュンヘンでランドスケープ・エコロジーについてレクチュアを受ける機会がありました。

エコロジーという概念は「自然に近い!」とイコールであるということでした。元々、都市の中には自然はなく、あっても植生に乏しい。そこで自然の中のエコロジカルな要素を抽出して、組み合わせることによって、都市の中に人間の関与を不要とする「自然的エコロジカルサイクル」を創り出す。ビオトープなどはその一例である。

「自然に近い」ということを部分的に作るのではなく、都市の公共空間全体で考えベルト状につないでいく手法によって、気候・地下水、雨水、空気などのコントロール・環境保全効果に寄与するものになり、人間と自然にやさしい都市空間となる。そして、「イギリス庭園(ミュンヘン市内にある大公園:300ha?)」などは、むしろ都市にとってリスクが高いかもしれない。・・・ということでした。

何となく分かりそうですが、底流にはやはりランドスケープ=造景という意識があるのですね。自然はコントロールする(できる)ものということでしょうか。
 

 <返信:MASA@管理人の質問> 2001/01/04

…“ミュンヘンの公園についての考察”も興味深いです。でもどういう点で“都市にとってのリスクがあるかもしれない”のですか?
 

<返信:自然(環境)に対する負荷 JKG-maruさん> 2001/01/04

人工物であることが大きな理由かもしれません。単に自然風であっても、必ずしも自然に調和するということにはならない、というのでしょう。ハノーファーの公園は規模も大きいですし緑もたくさんありますが、MASAさんが感じたように、けっして自然にやさしいものではありません。

農村地帯における農業ですら、環境に対する負荷が高い、環境破壊だとするドイツの人の目からすれば、都市における公園のあり方にも厳しいものがあるのかもしれません。 

 
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